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荒川区の歴史 平成20年3月13日改訂更新 |
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| 区内の寺社の板碑などから、平安時代から人々が区内で暮らし始めていたこが確認されています。しかし、なんといっても@中世鎌倉以降、関東の軍事戦略上の要衝の地であった南千住の「石浜周辺」。A江戸時代の「千住の宿」と江戸市民の遊興の地としての「ひぐらしの里」。B明治の富国強兵策の一環としての「官営大規模工場の進出とその衰退」。などが荒川区の歴史の重要なポイントだと思います。 |
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| 石浜物語その1 石浜から始まった「荒川区の中世」 地図 |
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![]() 創建は聖武天皇の神亀元年(724)とされ、1200年以上の歴を誇る石浜神社。 |
源頼朝の隅田川渡河 源頼朝は、石橋山の合戦で相模国の三浦氏などの援軍と合流することを前提に平氏と戦っていた。しかし折りしもの台風に遭遇し予定していた相模武士の援軍を絶たれ、平氏方の大庭影親らに破れた頼朝は、船で房総に落ち延びる。安房に逃れた頼朝は下総国千葉庄の千葉常胤に援助を求めた。常胤は一族を挙げて平家討伐戦に参加した。 治承4年(1180年)、頼朝は安房3国の3万余の大軍を率いて、現在の荒川区南千住「石浜神社」周辺の対岸、墨田区木母寺(もくぼじ)に営所「隅田の宿」を築いたといわれる。武蔵国を支配し平家追悼を画する頼朝にとって、石浜を舞台とした「隅田川の渡河」は全国制覇に向けた重要なポイントであった。 当時、武蔵国最大の武士団として平氏方にあり、頼朝の隅田川渡河を阻止しようとしていた江戸重長を、葛西氏らの説得により頼朝に従属させた。これにより隅田川に浮き橋を架けさせ、頼朝は大軍を無事に武蔵国へ入国させることが可能となり、全国制覇のスタートをきることになる。頼朝の隅田川渡河の5年後平氏は壇ノ浦で滅亡。鎌倉幕府の成立を迎える。 このように、中世史を彩る戦乱のドラマが石浜で展開された。 |
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| 左岸墨田区「木母寺 | 白鬚橋を望む | 右岸荒川区石浜神社 |
| 石浜はなぜ要衝の場所であったのか? 隅田川を挟んだ石浜(写真の右岸)で、中世の戦乱ドラマが展開された。石浜が古代・中世の軍事上の要衝の地とされたのは、奈良時代に武蔵国から奥州に抜ける官道(現在の府中市から豊島区周辺を駅とし石浜で隅田川を渡河し、下総の市川国府に抜ける、いわば国道)が設置され、「石浜」が東国と奥州を結ぶキースーションの位置にあったためであるいわれている。 |
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| 石浜神社の史跡紹介 |
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| 真崎稲荷神社 | ![]() |
真崎稲荷神社は天文年間(1532〜1554)石浜城主千葉守胤によって祀られたとされる。門前は隅田川の景勝の地として知られ、浮世絵にも数多く描かれている。 江戸中期から参拝する人が多くなり、宝暦7年頃には、吉原豆腐で作った田楽を売る茶店が立ち並び賑わったそうです。吉原の遊客もよく訪れ「田楽で帰るがほんの信者なり」など、当時の川柳に真崎稲荷・田楽・吉原を取り合わせた区が読まれている。現在は石浜神社本社右端(写真)に併合されている。 |
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| 日本大工祖神の碑 | ![]() |
本社入口右側に碑がある。碑の左面に「諸の匠人比の祖神をあつく信じあひて精巧に至るべし」と記されている。裏面に「「宮屋根石匠頭、鈴木市兵衛弟子、那須壮右ヱ門安政四年三月吉建之」という文字がある。碑に記されている鈴木市兵衛は、幕府屋根方御用職の世話役で幕府と一般職人の間に立って仕事の請負、割りふり、賃金の設定などをとりしきる同職仲間の総元締めであった。 |
| 亀田鵬斎の詩碑 | ![]() |
亀田鵬斎(1752〜1826)は隅田川沿岸に多くの詩碑を残した。この碑は、文政7年(1824)に建立されたもので、前面に隅田渡津の歴史を詠んだ七言率詩2首と、稲垣成斎による建碑の由来が刻まれている。鵬斎は詩文・書にも優れた儒学者であったが、寛政異学の禁で異端の筆頭とされた。晩年、金杉(台東区)で暮らし「金杉の酔先生」と呼ばれ親しまれたという。 |