荒川区地名ガイド
荒川区の地名に関するエピソードなどをご紹介します。

平成20年3月18日(火)改訂
 地名 関係写真 地名の由来
荒川区
荒ぶる川といわれた隅田川
「荒川区」の名の由来は、隅田川(江戸時代までは千住大橋から上流を荒川といっていた)が頻繁に洪水を起こし、荒川沿岸の住民は洪水との戦いを余儀なくされるなど、「荒ぶる川」に由来して「あらかわ」というのが専らの通説となっている。しかし一方で、秩父に渡来して韓文化を伝えた「荒氏」の名を川に冠したなどのいわれもあり確定的なものはない。
南千住
再開発が進む南千住駅東口
「千住」の地名については、@嘉歴2年(1327年)、源頼朝に仕えていた新井図書政次が荒川(隅田川)で千手観音を拾い上げたことによる説(新編武蔵風土記稿)。A下総の千葉氏が居住して千葉住村と称し、それが変化して千住村になったとする説(足立区史)。B足利将軍義政の愛妾「千寿姫」の出生地であるとの説。があるが確たるものはない。南千住という地名は比較的新しく、明治22年に町名として用いられた・日光道中の一番目の宿である千住宿の千住大橋を挟んで南側に位置することに由来する。
三河島
再開発が進む南千住駅東口
@1590の徳川家康入府の際に、家康が三河の国(愛知)から植木職人を三河島の地に連れてきたとする説。中央区の佃島は大阪の佃島から漁師の集団を連れてきたことに由来する。A後北条氏家臣細谷三河守の領地からくる説。B長禄年間に大田道灌の友人、源孝範(木戸三河守)の邸があったとの説。C中川・古利根川・荒川の三つの川に囲まれた島状の中洲だったためという説。など多数ある。三河国説は従来から有力な説とされてきたが、江戸期より前の北条氏所領役帳に「三河島」があり、三河国説は無理があり、「三つの川に囲まれた中州」との地理的な解釈が研究者のなかでも有力視されている。
町 屋
現在の町屋駅前
町屋の名は全国に散見され「新たに開発されたところ」と解するのが一般的である。荒川区の「町屋」の地名には3説ある。@「早くから町屋ができて開発されたところ」とする説。A三河島郷土史(昭和7年)によると、今を去る千百余年前、坂上田村麿が蝦夷を平定するに当り供奉した野武士数名が南千住(現在の都立荒川工業「周辺)に土着し、一つの町をなしたとする説があるが、何ゆえ南千住から現在の町屋の地に移ったのか不明で判然としない。B町屋地域に「荒木田」という地名が残されている。そのいわれは荒木田土という粘性のある良質な土のことで、壁や相撲の土俵の土に使われいる。本来は「真土」という名称であり、「マツチ」が転じてマチヤ=町屋」となったとする説。区内の三河島に「真土小学校」があり、浅草今戸の「真土山聖天」などとも共通している。しかしいずれの説も確証は存在しない
尾 久
都立尾久の原公園
「尾久」の地名はいくつかある。@豊島郡の奥という意味からきたという説。A仁治2年(1241年)の吾妻鏡に記述のある「武蔵国豊島庄犬食名」に由来を求めたもので、「犬食」は「大食」の誤りで、これを「おおぐい」と読んで尾久」とする説。B紙芝居作家、江戸研究家の故加太こうじ氏は、尾久の土地は酸性土壌で農作物の生育が悪く幕府に年貢を満足に納めることが出来ずに「小さく貢ぐ」=小具=尾久ではないかと推論しているいずれも決め手となる証はないが、専門筋ではAの「犬食説」が有力視されている。
日暮里
新交通システム:舎人新線導入と再開発が進む駅前
江戸時代の地誌「紫一本」(1682)「谷中の西北を新堀という・・・堀跡今にあり、大田道灌の取り立てなる城なり」とあり、新堀が日暮里の由来であることは定着している。同じく「紫一本」に「新堀を道灌山より臨めば、春秋の景色、日の暮るをも忘るる心にて日暮の里云いならわせり」とあり、17世紀末頃には「日暮の里」と呼ばれていたことが伺われる。いずれにしても日暮里台地の城の堀に係わる「新堀」が日暮里の地名の由来で、大地の寺社等の風光明媚なことなどから、江戸市民の行楽地としての日暮の里等の呼称を経て明治10年に日暮里村になったことはほぼ間違いないであろう。

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