石浜物語その2

 ???なぜ尊氏が荒川区に???
     足利尊氏と石浜

                H17・5・3        地図ガイド
石浜城をめぐる足利氏と新田氏の攻防
 弘和2年(1332年)5月、新田義貞軍は江戸氏豊島氏ら武蔵国の有力武士団の加勢を得て、稲村ガ崎から鎌倉に入り、時の執権北条高時の館を攻撃。高時は自害し鎌倉幕府は滅亡する。その後新たな覇権を巡り新田氏と足利氏の権力争いが激化、混沌とした戦乱の時代を迎える。
 観応2年(1351年)足利氏は足利尊氏と直義の兄弟が争い直義は殺害される。世に言う「観応の憂乱」である。この機に乗じて新田義貞の遺児、新田義興・義宗らが挙兵、「武蔵野合戦(現在の小金井市周辺)」で足利尊氏は新田軍に大敗を喫する。金井原(小金井市)から退却した尊氏は(奈良時代に作られた官道を通ったと推測される)『石浜城』に入って武蔵国武士団の参陣を待つため5日間を石浜で過ごし軍勢の立て直しを図る。こうして尊氏軍は府中に陣を構え、小手指、高麗原の合戦で新田勢を信州に追いやり、足利政権誕生のスタートを切ることとなる。
 鎌倉幕府誕生の端緒を開いた源頼朝の「隅田川渡河」から約170年後に、今度は足利政権(室町幕府)誕生の最大のドラマが再び石浜を舞台に繰り広げられた。中世における石浜の地の軍事戦略的な位置の大きさが理解できる。
(荒川区史などを参考にして記述したものであり、歴史の専門家でありませんので誤りなどあればご容赦ください)

石浜と官道の関係

 上図は奈良時代に作られた官道をイメージして作成した概念図です。赤い太線が官道です。東国から東北方面に行くために奈良時代に作られた官道(古道とも言われている)です。他からは東北方面に行けない時代で極めて重要な今で言う国道だったのだと推測できます。特に強力な武蔵国の武士団が軍事戦略を考える上で重要な官道であったと推測されます。
 そして「石浜」は当時、現在より東京湾に近接し、大河と称されるほどの川で、武蔵国府と下総国府を結ぶ要衝の位置にあった訳です。これで「石浜」の意味が少し理解していただけるのではないかと思います。
 なお、武蔵国府から下総国府に抜ける間に現在の杉並区天沼と北区上中里に休憩所のような営所があったと歴史書は記しています。

「江戸名所絵図」隅田川合戦

「江戸名所絵図」隅田川合戦

足利尊氏像(高師直ともいう)
江戸名所絵図の隅田川合戦=石浜城(石浜館ともいわれていた)に入った足利尊氏とこれを攻めようとする新田勢の隅田川周辺の合戦の状況を描いている。
石浜城はその後、房総を核に東関東に絶大な支配力を持つ千葉氏が足利成氏により安房を追われ、康正2年(1456年)千葉実胤が石浜城に入り、房総奪回のチャンスを伺うために千葉氏の本城となった。その後、武蔵千葉氏は赤塚城(板橋区赤塚)を築き、北条氏の武蔵国進出に従い、戦国時代の様々なドラマを展開した。そして太田道灌の江戸城築城など奈良官道から鎌倉古道へ中心を移した権力闘争の荒波のなかで、やがて石浜の地の重要性も薄れていく。(次回は「太田道灌と日暮里」を予定しています。)
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