千住の大橋
  

江戸四宿の一つ

千住宿と江戸
                 
平成17年9月11日(日) 地図ガイド


千住宿の旧家

千住に始まり千住で終えた江戸の歴史歴史

 天正18年(1590年)7月、豊臣秀吉は、関東で勢力を振るっていた後北条氏攻略し滅亡させ関東六カ国(伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野)を徳川家康に与えました。関東は京都から見れば地方の僻地で、家康の勢力伸張の押さえと東北地方の平定を目論む秀吉一流の狡猾な戦略であったと思います。
 当時、家康は居城を小田原か鎌倉に定めるのではないかと思われていましたが、草深い武蔵国の「江戸」に決まったときに世間は驚愕したと伝えられています。(それほど辺鄙なところということなのでしょう)

 こうして天正18年8月1日、家康は譜代の諸兵を率いて、太田道灌築城後135年たった荒れ果てた「江戸城」に入りました。世に言う「関東御入国」です。家康は入国後僅か4年後の文禄3年(1594年)いち早く「千住大橋」を架橋しました。東海道、中山道などに伝馬制が敷かれたのが慶長6年(1601年)ですから、家康の領国統治にあたり東北地方平定のポイントでもあった「千住大橋」の軍事戦略上の重要性が理解できます。江戸は千住に始まったといっても過言ではないでしょう。
 関が原の戦いを経て、慶長8年(1608年)徳川家康は征夷大将軍となり江戸に幕府を開き江戸は名実ともに260余年にわたる徳川幕藩体制の首府になりました。
 歴史は巡って、慶応4年(1868年)4月11日、大政を朝廷に奉還した15代将軍「徳川慶喜」は、1600人余の供を従えて「千住大橋」で江戸に別れを告げ水戸へ去っていきました。徳川幕府260年余のラストシーンです。
増谷秀竹作画「将軍江戸を去る」の千住大橋 現在の千住大橋(国道4号)

 新作歌舞伎の作家、真山青果は「将軍江戸を去る」の中で、徳川慶喜が千住大橋から江戸を去る様子をドラマチックに演出しています。慶喜が千住大橋で水戸に向けて一歩を踏み出したとき、お供の幕臣「山岡鉄舟」が「殿!その一歩が江戸の限りでござりまする」と叫ぶと、周りのお供や見送りの江戸町民が嗚咽しながら別れを惜しむ名場面です。新作歌舞伎十八番の一つに挙げられる名作品です。
 左上の絵は知人の「増谷秀竹さん」が描いた「将軍江戸を去る」です。この絵のように慶喜は淋しく江戸を去っていったのだと思います。江戸時代は千住で終わったといっても過言ではないと思います。
 右上の写真は現在の千住大橋です。昔日の面影はなく、産業道路として大型トラックの多い国道4号です。近代化とはかくも無機質なものですかね。


     千住宿の町並み
       
                増谷秀竹作画「千住やっちゃ場」

 千住宿は、三代将軍徳川家光の頃の寛永2年(1625年)に日光街道の初宿に指定され、足立区北千住側を中心に始まりました。万治3年(1660年)に現在の荒川区側の小塚原町、中村町が千住宿に加わり(加宿といわれている)全体の10ヶ町を総称して「千住宿」と呼ばれ発展しました。
 天保15年(1844年)の「日光道中宿村大概帳」にその規模が「宿内町並南北32町19間、人別9556人、家数2370軒、本陣1、脇陣1、旅籠55軒」と詳細に記録されています。
 荒川区側の宿場の町並は、現在の南千住7丁目1番(JR南千住駅の回向院周辺)
から千住大橋までで、材木屋、髪結、米屋、乾物屋、藁屋、畳屋、薬屋、水油紙屋、瀬戸物屋、酒屋、棒屋、菜種屋、刻煙草屋、絵本屋、足袋屋、鮨屋、居酒屋、鰻屋、蝋燭屋、桶屋、水茶屋、旅籠、特に飯盛り女を置いた飯盛旅籠屋が14軒あり、宿場ならではの様々な職業が見られ、たいへんな賑わいを見せていたそうです。
 
千住宿の町並絵図がなくて困っていましたが、千住をこよなく愛する「増谷秀竹」さんの画が往時の千住宿の町並みを見事なタッチで再現しており、たいへん参考になりました。感謝・・・

偉大な都市計画家でもあった家康

 辺鄙な片田舎とも思われていた「江戸」に将来の国家統一の可能性を見出した徳川家康は類稀な都市計画の天才であったと私は想像しています。その可能性とはなにか、私なりに推論すると。@日本のほぼ中央に位置し、気候が温暖である、A京都では手薄になりがちな東北への押さえが利く地の利。B海(日比谷入江)に恵まれ江戸城の後背地が丘陵地帯で軍事的に優位な立地条件。C唯一のマイナス点である沖積層(平野)が少ない点は海を埋め立てて「海上都市」を建設すれば、従来にない堅牢な首都建設が可能。・・・などを考えたのではないかと思います。
 
江戸は家康により、1604年に第一次天下普請である「日比谷入江の埋立て」が始まり、約60年間に六次にわたる天下普請(大土木工事)が行われ江戸の原型を作り上げていきました。

     中国の長安をモデルとした江戸の町づくり
 
長安は唐の都として長く栄華を誇りましたが、その都市づくりは「四神相応の地形」が理想であるとする陰陽学の原理に基づいて都が建設されたそうです。宇宙をつかさどる東南西北の四神を適正な位置に祭る地形を理想とする原理です。家康はこの原理を江戸の都市計画に当てはめて街づくりを進めました。

<概念図の説明>
@東に=「清竜」の神が宿る川。A南に=「朱雀」の神が宿る池か海 B西に=「白虎」の神が宿る道 C北に=「玄武」の神が宿る山・・・山を背にして南前方に海を眺め、太陽の光を一杯に浴びながら、東から清流を引き飲み水をふんだんに使い、西の道から運ばれてくる食料で豊かに生活する・・・これが人間にとって理想卿であるという教えです。
ちなみに「千住」は東の清竜で「川」の神が宿る位置とされています。
 上図は、絵が下手な私が書いた「四神相応」の概念図です。(下手な図でごめんなさい)
家康はかなり緻密に街づくりを考え、古来からの都市建設の成功例をモデルにするなど、都市計画の才もそうとうなものであったと思います。そうした壮大なビジョンによって作られた江戸の街の骨格は、5街道、4宿(品川新宿板橋千住)など、現代の大都市東京の発展に色濃く反映されており見事な都市計画であったと思っています。
 次回は近代化の上でも重要な明治初期の荒川区を予定しています・

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