近代国家の幕開け
(明治時代初期)
 千住製絨所物語
                         
平成17年10月1日  地図ガイド
錦絵:井上安治画「千住ラシャ製造所」
 上の画は、浮世絵師「井上安治」が描いた「千住製絨所」の明治12年頃の南千住6丁目(現荒川区総合スポーセンター周辺)の様子です。果てしない田地の中に近代的な大工場が突如として誕生したイメージが見事に描写されています。現在の建て込んだ町の状況と比較して、明治以降の近代化の凄さには驚くばかりです。
 「千住製絨所」は、世界の列強国入りを目指す明治政府が「富国強兵・殖産興業政策」に基づいて、それまで西洋から輸入していた毛織物を自前で調達する官営工場として建設され、明治12年に操業が始まりました。
ラシャ場ともいわれ、井上省三が初代所長に就任しました。
 千住製絨所は省三の師であった明治維新の立役者:
木戸光允の尽力と大蔵大臣であった大久保利通の建議により実現したものです。当時の超ハイテク産業が荒川区南千住に誕生したともいえるでしょう。具体的には軍服を輸入に頼っていた明治政府が毛織物(ウール)を自前で製造し、貨幣の海外流失を防ぎ、逆に外貨を獲得する殖産興業の中核に育てることを目的としたようです。
千住製絨所初代所長:井上省三像(荒川スポーツセンター横に設置)台座の脇には羊のモニュメントも設置されている。 往時の千住製絨所。荒川(現隅田川)への舟運が物資輸送の主力であり、工場内に荒川と結ぶ掘割も作られていたようです。
初代所長「井上省三の生涯」
・この千住製絨所の初代所長が「井上省三(せいぞう)」です。省三は明治維新の23年前の1845年に山口県(長州)にうまれ、兵学を学ぶためにドイツのベルリンに留学しました。しかし、近代西洋文化に触れた省三は、殖産興業の重要性に目覚め、明治6年にドイツの羅紗製造所(カール・ウルブリヒト会社)に入り刻苦勉励(1日のうち14時間を工場で働き、6時間を製絨の知識の学習時間とし、睡眠時間はわずか2時間という凄まじい毎日を3年間送ったそうです)して製絨の技術を修得しました。
・明治9年帰国した省三は製絨所の立ち上げに奔走し、明治12年9月千住製絨所の初代所長に就任しました。しかし工場が軌道に乗った明治16年12月、工場から失火し多大な損害を蒙り、その復興に向け山積みする問題に取り組んだことが原因で病に倒れ、明治19年12月に42歳という若さで短い生涯を閉じました。
木戸孝允(桂小五郎)との出会い
・省三は23歳の時に、木戸孝允(桂小五郎)も教鞭をとった憧れの山口兵学校に入り、西洋兵学を学びました。そして山口での藩兵脱藩事件で木戸孝允の目にとまり、後の欧州留学の推挙を得る契機にもなった重要な出会いでした。
千住製絨所の概略
・千住製絨所の規模は、敷地約27,400u、建築面積約5,800uで当時の工場としてはたいへん大規模で、洋風煉瓦造りの建築は異彩を放っていました。南千住への立地は荒川(現在の隅田川)の舟運の利便性と土地が低廉であったことが理由のようです。
製絨所開業式
・明治12年9月27日、千住製絨所開業式が盛大に行われました。この日の参列者は、伊藤博文大隈重信、西郷従道、河村純義、山田顕義山縣有朋黒田清隆大山巌松方正義森有禮前島密青木周蔵など、明治政府や軍の要人が列席しました。いかに明治政府にとって、千住製絨所の開業が国家の威信をかけた大事業であったか、この錚々たる顔ぶれからも理解できます。また荒川区南千住でこうした晴れがましい開業式が行われたことは郷土の誇りでもあります。
・しかし、製絨所の産みの親でもあった大久保利通、省三の生涯の恩人であった木戸孝允はすでに没し開業式での省三の感慨は切なるものがあったであろうと、「井上省三伝」(井上省三記念事業委員会編)に記されています。
その後の製絨所
・この官営「千住製絨所」も昭和24年に民間の大和毛織株式会社に払い下げとなったが昭和36年に工場は閉鎖され、昭和37年に大映株式会社による「東京球場」が誕生し、下町のプロ野球球場として大きな話題になりました
現在は荒川区立総合スポーツセンターとして区民から親しまれています。
・荒川区は東京を代表する「産業の町」といわれてきましたが、その基礎がこの国家的プロジェクトであった「千住製絨所」により築かれたといえるでしょう。
現在も当時の赤レンガが残っている。是非こうした歴史的遺産をきちんとした形で保存したいですね。 昭和37年には大映の永田雅一が大和毛織工場跡地(旧千住製絨所)に大毎オリオンズの野球場を作ったが、映画の不況で倒産。現在の区立総合スポーツセンターへと変遷します。
     現在の区立総合スポーツセンター 省三像の台座の脇に設置されたし羊(結構可愛いです)

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