荒川区の歴史            
大正時代の尾久

     三業の町:尾久
                     平成18年2月20日(月)  地図
荒川歴史ガイドも8回目を迎えます。今回は大正時代に賑わった尾久地域の「三業」の歴史を辿ることしました。明治時代まで静かな農村地帯であった尾久町も大正2年に王子電気軌道(現在の都電荒川線)が開通し、大正3年には尾久温泉(ラジウム鉱泉)の発見、大正11年に「あらかわ遊園」(当時は大人のヘルスセンター)が開園し、町の最盛期を迎えます。
特に尾久温泉の発見は、大正から昭和初期にかけて、料理屋・芸妓屋・待合の三業が発展する契機ともなり、尾久町の発展に大いに寄与しました。
発展の契機になった尾久温泉の発見は、現在の尾久警察の向かい側にある碩運寺の住職が寺の井戸水にラジウムエマナチオンが含有していることを発見したことに始まります。碩運寺は一躍「寺の湯」として有名になり後に「不老閣」として独立し、周辺に続々と温泉旅館が誕生し、湯女が必要なことが発端になり「芸妓屋」に発展しました。こうして「尾久の三業地」は花町として大いに賑わいました。
また、昭和11年には「阿部定事件」もあり「尾久三業」は世間の話題をさらいました。
ピーク時の芸妓屋は戦前の昭和4年に59軒(浅草は284軒)、戦後の昭和35年には37軒(芸妓衆330人)などの記録もあります。
<当時の主な温泉旅館>
小泉園、光泉閣、不老閣、熱海、旭館、保生館、大河亭、石橋亭、霊泉館、富貴館、小泉園分園、熊野館、ありま温泉ありま、冨倉館・・・・・・
尾久温泉発祥の地「碩運寺」 寺の湯跡の説明版
今はない尾久三業 昔を彷彿させる料亭「深水」=現存しない
<尾久温泉発見の由来>
碩運寺住職が温泉を発見したのは@焼酎を造るのに井戸水が良いと思い地下水の水質検査をした。
A子供が怪我をしたときに寺の井戸水で傷跡を洗ったら怪我の直りがよくなにか効果があるのかと思い水質検査をした・・・との2説がある。


芸妓屋「武蔵野」=現存しない
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