渡辺町
日暮里
あらかわ
消滅の町:物語
平成18年4月21日(金)
汐入
南千住
 荒川区内には、町全体が消滅してしまったといえる2つの事例があります。一つは大正時代に田園調布より先にモダンな文化住宅地として開発された「日暮里渡辺町」です。消滅の契機は開発者であった銀行の倒産〜第二次世界大戦の爆撃でした。
 二つ目は東京都の防災再開発計画により約50ヘクタールという広大な町が再開発された「南千住汐入」で、古い歴史を積み重ねた町並みが全て消えてしまった事例です。一つの区域で二つの町が消滅してしまった例は全国的にも珍しいことだと思います。


汐入(再開発前)


歴史と下町文化の町

(2)南千住汐入:消滅
平成18年4月22日(土) 地図

汐入(再開発後)
 南千住汐入は、中央区の佃島などと共に、江戸時代から隅田川を中心に独特の生活文化を築いてきました。特に汐入大根、汐入の胡粉(牡蠣殻を砕いて作る極上の顔料)の生産地として有名でした。
 明治時代以降は隅田川の舟運と隅田川貨物駅などの交通利便性と土地が安価という条件から、「大日日本紡績(ニチボウ)」「鐘淵紡績(カネボウ)」の2大工場が立地し、工業の町として発展してきました。
 そんな汐入も、関東大震災から60年後には同規模の大震災が東京に起きるとの予測に基づき、昭和44年に亀戸・大島・小松川地区と共に白鬚西地区として江東再開発基本構想の再開発地区に指定されました。
 昭和58年都市計画決定〜昭和62年事業計画決定を経て、平成元年には、スーパー堤防の導入・公園の隅田川沿いへの位置変更、街路計画の大幅変更など、現在の姿に結びつく、歴史的とも言える大規模な計画変更を経て平成17年度に事業が完了し、地名も白鬚西地区になり、住宅戸数=4,500戸、人口=14,700人、震災時避難人口=12万人という区内最大のニュータウンに変貌しました。
 当初の計画は、隅田川沿いの学校などを温存し、汐入地区の日石やニチボウの跡地を公園(避難広場)とする閉鎖的な計画だったそうです。地元住民や荒川区の「快適なまちづくり」の実現に向けた粘り強い要望により、平成元年に実現した大幅な都市計画変更は、「隅田川に顔を向けたまちづくり」の実現の契機になり、将来の汐入(白鬚西地区)の発展に非常に大きな意義があったと考えます。
 そして、約500年近い歴史と下町文化を脈々と引き継いできた「南千住汐入」は、その名も、懐かしい町の姿も完全に消滅しました。

        再開発前の汐入                      再開発後(含む工事中)の汐入
住宅が密集していたかっての汐入     住宅密集地も跡形もなくクリアランス
再開発工事直前の住宅密集地    近々100m級の超高層住宅が建設される
なつかしい汐入の路地      路地はなくなり近代的な街路となる
なつかしい汐入の路地       立派な街路に変身
再開発工事中の模様       これがほんとに汐入?
かつての汐入の全景        汐入全体の再開発完成模型(東京都再開発事務所)
*とにかくドラスチックな再開発ですね。多分日本の再開発の中でも最大級だと思います。
*町は美しくなり生活は便利になりましたが少し淋しい気がするのは贅沢ですかね?
*「都市は輝けど市民は輝かず」という町だけにはしたくないですね・・・・・


渡辺町のあった所

幻の田園都市
(1)日暮里渡辺町:消滅

平成18年4月21日(金) 地図

渡辺町周辺と開成学園
 JR西日暮里駅を下車し、道灌山下方面に向う右側に、突然、道路が碁盤の目のように区画された一角があります(現荒川区西日暮里4丁目)。「開成高校」「開成中学」あるところといえばピント来る人が多いでしょう。
 このあたり江戸時代は
、秋田藩主佐竹屋敷があった道灌山の西側斜面一帯で、大正時代は荒れ果てた「佐竹っ原」と呼ばれていました。大正初期に「東京渡辺銀行」「あかじ貯蓄銀行」の経営者だった渡辺冶衛門がこの荒れ果てた佐竹屋敷跡に、欧米の都市を視察研究の上、文化村の先駆として理想的な住宅地として開発したのが「日暮里渡辺町」です。
 渡辺町は「区画道路」を基盤に「上下水道」「電気」「瓦斯」「電話」などの生活インフラを完備し、電線を全て地中化し、600坪余の大規模公園(現日暮里公園)や幼稚園なども配備し、開発当初より300余戸の住宅を擁する、文字通り当時の先駆的な文化住宅地でした。そうした環境の良さから洋画家「石井拍亭」、作家「野上弥生子」をはじめ、画家、彫刻家、実業家が数多く住んでいたそうです。
 明治末期から江戸の武家地跡を中心に郊外住宅地が盛んに作られました。本郷西片町、小石川音羽町、駒込大和郷、田園調布、成城、目白文化村などです。なかでも有名なのが渋沢栄一が開発した「田園調布」ですが「日暮里渡辺町」それより少し早く完成しています。
 昭和2年に当時の蔵相が関東大震災手形をめぐる発言で、渡辺銀行は取りつけ騒動の渦中に巻き込まれ、倒産、全国の金融恐慌の端緒ともなり、「渡辺町」も人手に渡ることになりました。
 昭和20年4月B29爆撃機により爆撃され、300余の住宅のうち6軒を残し全て灰に帰し、町の姿も、町の名前もともに消滅しました。

開成学園と渡辺町(開成学園百年誌) 往時の渡辺町(開成学園百年誌)
渡辺町案内板(ひぐらし坂登り口脇) 渡辺町があったところ(現西日暮里4丁目)

*日暮里渡辺町の写真などの資料が極めて少なくこの程度の紹介しかできません。残念です。

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