古寺巡礼
                                        
  南千住コース

                            街道(日光街道)の寺社めぐり

 荒川区には55のお寺があります。特に南千住の「日光街道」と日暮里の「諏訪台地」には江戸の歴史を偲ばせる寺院が数多くあります。忙しい現代生活の中で、たまには地域の歴史を振り返りながら古寺巡礼はいかがですか。「日暮里コース」もお忘れなく・・・・
【南千住古寺巡礼コースご案内】
@小塚原回向院→A浄閑寺→B公春院→C真正寺→D円通寺→E西光寺→F真養寺→G素盞雄神社→H誓願寺→I熊野神社→J日枝神社→K日慶寺

平成19年8月日19日(日)       南千住コースも最後です
                                    にっけいじ
               
    K日 慶 寺
                                             場所ガイド
                                            荒川区南千住7−15−4
 日枝神社を出てJR南千住方面に戻る途中に日慶寺があります。江戸の天文年間、日慶という比丘尼が谷中に日慶寺を草創しました。 その後、三代将軍家光に仕えた円心院日相尼が、宝永元年(1704)、千住南字砂尾と呼ばれた現在の土地に、当時荒廃した谷中日慶寺の遺号を引き継ぎ、開創し、円心山日慶寺と号したと伝えられます。 境内に現存する鬼子母神像は、運慶作といわれ、四代将軍徳川家綱から、開山日相尼に下賜されたものと伝えられます。また、元文年間九代将軍家重が、三河島筋で鷹狩を行った際の御膳所としてあてられたそうです
 
「古寺巡礼南千住コース」も日慶寺で最後です。お疲れさまでした。
日慶寺 山門
無縁仏供養塔  日慶寺本堂
円心山の字が見える 本堂内陣
四代将軍徳川家綱から、開山日相尼に下賜されたものと伝えられる鬼子母神を祀る堂 鬼子母神
歴代上人の墓所 歴代上人の墓所
お帰りは南千住東口の商業施設ララテラスでお食事でも! JR南千住・つくばエックスプレスでお帰りください
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平成19年8月日19日(日)
                                  ひえじんじゃ
               
    J日枝神社
                                             場所ガイド
                                            荒川区南千住7−23−18
 熊野神社を出て日光街道の千住大橋を隅田川沿いに白鬚西地区(旧南千住汐入)方面に徒歩約3分、日枝神社が見えてきます。日枝神社は隅田川の堤防沿いにあり、山王社と呼ばれています。旧中村町(千住宿)の鎮守で正和5年(1316)建立されました。入口にあたる旧砂尾堤(スナオヅツミ)土手北端に、歯神清兵衛を祀った小祠(ショウシ)があると伝えられてきました。江戸時代、いずれかの藩士清兵衛が、虫歯の痛みに耐えかねて、「これ以上の任官はできない事を悲観し」この地で切腹し、遺言によってその霊を祀ったという伝承があります。俗に山王清兵衛と呼ばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、「婦人が錨(イカリ)をくわえた絵馬」を奉納する習わしで、千住の歯神として江戸時代から有名でした。
日枝神社鳥居 素朴に建つ日枝神社
山王清兵衛の由来が記されている  内陣正面
内陣の木組みが美しい 精緻な内陣の木組み
碑石が建つ 神社全景
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平成19年8月日12日(日)
                                  くまのじんじゃ
               
    I熊野神社   場所ガイド
                                            荒川区南千住6−70
 誓願寺を出て、千住大橋に向かうと大橋の袂の左側に熊野神社があります。熊野神社の創建は永承5年(1050年)源義家の勧請によると伝えられてるそうです。この、熊野神社は荒川(現隅田川)に大橋を架ける時に成就を祈願し残った材木で社殿を修復しました。以後、大橋のかけかえ祈願と神殿修理が慣例になりました。そういう経過から千住の守護神として地域の信仰を集めた歴史的な神社です。また、このあたりは材木、雑穀の問屋が立ち並び「川岸」(かし)と呼ばれ陸路奥州道中と交差して川越夜舟が行きかい、秩父・川越からの物資の集散地として大いに賑わったそうです。
熊野神社(鍵がかかって境内に入れない) 熊野神社の鳥居
鳥居上部に熊野神社の字が見える  熊野神社の由来が記されている
江戸時代から材木商であった家が今も残る(神社前) この道に江戸時代は材木商が立ち並んでいたそうです
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平成19年8月日12日(日)
                                  せいがんじ
               
    H誓 願 寺 場所ガイド
                                            荒川区南千住6−69−2
 素盞雄神社を出て千住大橋の手前に誓願寺があります。誓願寺は、奈良時代末期(780)に天台宗の寺として建てられたが、慶長元年(1596)に浄土宗に改められました。本尊阿弥陀如来は聖徳太子作と伝えられていますが、現在はそれを模した版木のみが残っています。境内には、親の敵討ちをした子狸の「狸塚」があります。また、天正19(1591)年、徳川家康が巡覧した時に腰掛けたと言われる榎があったが戦災で焼失しました。南千住汐入村の開祖として知られる高田家の墓地もあります。
誓願寺山門 山門脇に寺の由緒が記されている
誓願寺本堂 東京に居るのを忘れる静寂な境内
緑が濃い誓願寺の庭 江戸時代の庚申塔が建つ
江戸時代の供養塔が珍しい 汐入村の開祖高田家の墓もある
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平成19年8月12日(日)
                              すさのおじんじゃ
               
    G素盞雄神社   場所ガイド
                                           荒川区南千住6−60−1
平安時代延暦14(795)年に創建され、区内で最も広い氏子区域を持つ鎮守で、石を神として崇拝する石神信仰に基づく縁起の神社です。地元では「天王様」とも呼ばれ親しまれています。延暦14(795)年、奇岩が微妙な光を放ち、その光のうちに素盞雄命(すさのおのみこと・素盞雄大神)と事代主命(ことしろぬ しのみこと・飛鳥大神)が現れて信託を告げたとの伝説があり、その光る石を祀るために、素盞雄神社が創建されたと言われています。「瑞光(ずいこう)石」と呼ばれるその石は、二神を祭神として現在も境内に祀られています。
 また、松尾芭蕉の「奥の細道」旅立ちの記念碑があることでも有名です。この記念碑は「奥の細道」の千住矢立の初めの一説と芭蕉坐像が刻まれたもので、芭蕉が旅立った元禄2(1689)年からおよそ130年後の芭蕉忌に、俳聖を偲んで千住周辺の文化人たちによって建立されたものです。
 毎年6月には、夏の疫病を振り払う祭りとして、1200年以上も続いている「天王祭」が行われ、多くの露店が並び賑わいを見せます。3年に一度の「本祭」では、氏子区域である南千住三ノ輪地区、三河島地区、町屋地区の人たちに御本社神輿が担ぎ継がれて渡御し、御旅所である町屋の原稲荷に泊まり、翌日再び巡行しつつ素盞雄神社へと戻ります。9月には飛鳥祭も行われます
天王祭] 素盞雄神社HP
創鎮守としての風格を感じさえる本殿 本殿の上部
本殿内陣 3年に一度の勇壮な天王本祭
本殿に向かって左の狛犬 本殿に向かって右の狛犬
日光街道沿いの東門、奥は大銀杏 20メートルを超える神社のシンボル「大銀杏」
神社の由来を記す案内板 松尾芭蕉をはじめとする縁の文人たちを紹介する案内板
境内にある松尾芭蕉の句碑 境内にある松尾芭蕉の句碑
神社誕生に重要な関わりを持つ「瑞光石」を祀っている浅間神社が境内の中央にある。 瑞光石の由来を記した案内板が浅間神社の脇にある
祭礼に欠かせない神楽殿が境内西側に建っている 二天(二本)棒の勇壮な神輿振りで有名な本社神輿
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平成19年8月日2日(木)
                                  しんようじ
               
    F真 養 寺   場所ガイド
                                          荒川区南千住5−44−4
 万治2年(1659)、当地に開かれた運千山自性寺を前身とする日蓮宗のお寺です。元禄2年(1689)下谷三枚橋付近にあった公布山真養寺を合併し、現在の運千山真養寺と称するようになったそうです。境内には開基である木材・石材商の吉田勘兵衛が寛文11年(1671)に建立した宝塔があります。吉田勘兵衛は横浜の埋め立て事業に貢献した人物として有名です。明治40年(1907)、日光街道(現在の国道4号)拡幅のため境内が分断されました。街道の西側にある墓地には、金工:東龍斉清寿の墓があります。清寿は、江戸前の粋な味を刀の鍔に施すことで知られた人物です。寺では、「南千住の歴史に親しむ会」を開催するなど地域住民と一緒に文化活動にも力を入れています。
真養寺本堂 本堂上部に「運千山」の字が見える
無縁仏を祀る墓所 吉田勘兵衛が建立した宝塔
山門脇にあるお地蔵さん 寺の由来を記した碑が山門脇にある
日光街道西側の西墓地 西墓地内にある東龍斉清寿の墓
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平成19年8月日2日(木)
                                  さいこうじ
               
    E西 光 寺   場所ガイド
                                         荒川区南千住5−16−19
 西光寺は賢誉長公(天文8年、1539没)が開いた寺で、真覚山菩提院ともいわれています。芝増上寺の末寺で本尊の阿弥陀仏は、高さ約1メートルの坐像です。江戸時代には「病ある者、白団子を笹の枝に刺して祈願すれば霊験あり」といわれ、それ以来「笹の団子の如来」と呼ばれるようになりました。西光寺は、寺院と隣接して「若葉幼稚園」を経営し、地域に密着した寺院でもあります。
西光寺本堂 本堂正面上部に「真覚山」の字が見える
墓所への入り口の門 無縁仏を祀っている
境内に隣接して若葉幼稚園がある 笹団子の由来を記した碑が山門脇にある
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平成19年6月日17(日)
                                  えんつうじ
               
    D円 通 寺   場所ガイド
                                         荒川区南千住1−59−11
 円通寺の歴史は古く、延暦10年(791年)、坂上田村麻呂の開創いわれています。境内にある黒門は、元々は上野寛永寺に建っていたものです。慶応4年(1868年)に旧幕臣の彰義隊が大村益次郎の指揮する新政府軍と戦った上野戦争の名残で、黒門には上野戦争の激しさを伝える弾痕が残っています。明治40年(1907年)に円通じの住職が彰義隊士の遺体をを供養したことが縁で、黒門は南千住の円通寺に移設されました。また、円通寺には彰義隊士266人が埋葬されている墓もあります。
円通寺山門 シンボルの慰霊塔
弾痕の跡が生々しい「黒門」 時代の風雪に耐えてきた「黒門」
彰義隊の墓の説明版 境内の一角にある彰義隊の墓
266人の彰義隊が葬られた墓所 1963年3月31日台東区下谷で誘拐され殺害された「村越吉展」ちゃん(当時4歳)の供養の為、建立されたものです。
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平成19年6月日17(日)
                                  しんしょうじ
               
    C真 正 寺     場所ガイド
                                           荒川区南千住1−56−9
 寛文元年(1661)真正寺が浅草から当地に移転してきた時に、真正寺門前町も同時につくられました。東西20間3尺、南北24間2尺(約1600m2)ほどの土地であるが、荒川区で唯一の門前町です。町奉行支配地で、寛延2年(1749)3月に類焼の後、家作と畑地に分けられた。明治2年(1869)、地名を下谷真正寺町と改めたが、同12年(1879)下谷通新町に合併されました。
真正寺の山門。国道4号線(日光街道)沿いにあるため山門も狭くうっかりすると見落としてしまう。 真正寺門前町の由来が記されている
真正寺本堂 境内の供養塔
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平成19年6月日10(日)
                                  こうしゅういん
               
    B公 春 院      場所ガイド
                                          荒川区南千住1−32−9
  浄閑寺を出て日光街道を千住大橋方面に3分ぐらい歩いた左側に公春院があります。開山は天台宗の修験者満開行者であったが、延宝年間の三代目住職のときに浄土宗に改宗。本寺は浅草の聖徳寺。檀家に大関横丁にあった石川日向守家人や吉原の海老屋、玉屋、蔦屋などを持ち、地域に密着した寺院であったことが偲ばれます。昭和14年に現本堂が落成しました。
 江戸時代に公春院の巨松は周囲が約4m、高さ14m、樹齢は500年を越す物であったと伝えがあります。二代将軍秀忠がこの地に鷹狩におとずれたおり、鷹が木に止まったので鷹止の松と呼ばれました。 また、「遊歴雑記」(文政十二年)にも、東武三十六名松の一つ「証拠の松」として記さています。江戸時代、新しく寺院を建てることは禁止されていた。幕府の役人が当寺の開創年代を調べにきた際に、松の雄大な様子が新しい寺院ではないことを証明したとされ、依頼「証拠の松」とよばれるようになったと言われています。
公春院の山門。国道4号線(日光街道)沿いにあるため山門も狭くうっかりすると見落としてしまう。 国道4号線。この先に千住大橋がある。公春院はこの写真の左側にあります。
公春院本堂。証拠の松を彷彿させる松が美しい。 公春院の松の由来が記されている
無縁仏の供養塔 水子地蔵gs本堂の右手にある
本堂には開祖「満開行者」の名が見える 安価な蒲焼が地域でも評判の「丸善」。お帰りのお土産にしてください。
左側は旧「王子電気軌道」本社ビルといわれる梅沢写真館。右側は都電荒川線三ノ輪橋駅に続くアーケード。レトロな感じが漂います。 アーケードを抜けると都電三ノ輪橋駅です。最近、東京都交通局が都電の活性化のために導入した「レトロ都電」がタイミングよく止まっていました。お帰りはこちらから・・・
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平成19年6月3日(日)
                             
じょうかんじ
               
    A浄 閑 寺    場所ガイド
                                         
荒川区南千住5−33−13
  回向院を出て、常磐線沿いを右折しウナギで有名な尾花を通り日比谷線「三ノ輪駅」近くに浄閑寺があります。浄閑寺は安政2年(1855)の大地震の際にたくさんの新吉原の遊女が投げ込むように葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになりました。花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立されています。寺には檀徒のほかに、遊女やその子供の名前を記した、寛保3年(1743)から大正15年(1926)にいたる、慈十冊の過去帳が現存します。
 遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れています。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものです。
浄閑寺山門 山門の左側に地蔵菩薩が建っている
本堂の前に建つ新しい慰霊塔 浄閑寺本堂
墓所入口にある遊妓「若柴」の墓。若柴は新吉原角海老桜」きっての遊妓で身請けされる直前に狂客の刀にかかり21歳の非業の死を遂げる。永井荷風は「断腸亭日乗」の「若柴塚記」で若柴の悲劇を嘆き悲しむ記を残している。 永井荷風の歌碑。新吉原総霊塔と対峙して浄閑寺を度々訪れた永井荷風の『偏奇館吟草「震災」』より抜粋された「今の世のわかき人々」で始まる碑が昭和38年に建てられた
歌碑の脇にある記念碑。荷風の字が読める。 永井荷風は度々浄閑寺を訪れた。
正式には、新吉原総霊塔。昭和4年頃、浄閑寺23代住職岩野真隆師が中心となって建立されました。総霊塔の下は納骨堂となっており、昭和以降吉原で亡くなった遊女の遺骨が納められています。石碑の文章は「生れては苦界 死しては浄閑寺 花醉」。花又花醉(花又花酔)は昭和三十年代に亡くなられた、廓をよく詠んだ川柳作家だそうです。
浄閑寺に葬られた数多くの遊女達がいた「新吉原」の図。最初は日本橋葺屋町(ふきやちょう)にありました。その後江戸の町の拡張などの理由と思われるますが、幕府より移転命令が出され現在の台東区浅草千束に移り「新吉原」と呼ばれました。浄閑寺から新吉原までは徒歩10分位の位置です吉原の名は日本橋葺屋町一体が葦(よし)が生い茂る原であったとことに由来します。
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平成19年5月19日(土)
                              こつかはらえこういん
                     @小塚原回向院    場所ガイド
                                           荒川区南千住5−33−13
  JR・つくばエクスプレス・東京メトロの南千住駅徒歩3分にある「南千住回向院」は、墨田区の「両国回向院」の別院です。1651年(慶安4年)に江戸幕府により新設された小塚原刑場の刑死者を供養するため、1667年(寛文7年)に両国回向院の住職「弟誉義観(ていよ・ぎかん)」が常行堂を建てた事が始まりで、政治犯の刑場として有名でした。ちなみに品川区にあった「鈴が森刑場」は刑事犯の刑場で江戸の2大刑場でした。
 小塚原回向院には、桜田門で井伊大老を暗殺した15人浪士の墓、安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松蔭・頼三樹三郎、「毒婦」といわれた高橋お伝の墓があります。
 1771年(明和8年)に蘭学者杉田玄白・中川順庵、前野良沢らが、日本で初めて刑死者の腑分け(解剖)に立ち会った歴史的な場所で、「観臓記念碑」が建っています。
 有名な「吉展ちゃん誘拐事件」の犠牲者である村越吉展ちゃん(4歳)の供養塔「吉展地蔵尊」も入り口左側に建っています。
 また、常磐線の鉄道施設の際に分断されて独立した延命寺には、2m余の地蔵尊(俗称:首切り地蔵)もあります。
   井伊大老暗殺の浪士の墓
万延元年3月3日桜田門外の変で安政の大獄を推し進めた大老井伊直弼を暗殺した15浪士が小伝馬町牢屋敷で処刑後、小塚原回向院に埋葬、その後郷里に移された。
         橋本左内の墓
安政の大獄で処刑された福井藩士橋本左内の墓。左内は激動の幕末期に西欧の先端技術の導入、ロシアとの和平など開国派の論客であった。福井藩主松平春獄に重用されるも将軍継嗣問題へも介入を問われ斬首の刑に処せられた。
        吉田松陰の墓
安政の大獄で処刑された長州の吉田松陰は、処刑後桂小五郎らの手で回向院で供養された。松蔭の遺骨は文久3年1月高杉晋らの手により世田谷区の松蔭神社に改葬された。
        現在の回向院         腕の吉三郎の墓        高橋お伝の墓
     「観臓記念碑」
明治8(1771)年には、蘭学者でもあった杉田玄白や中川淳庵、前野良沢などが小塚原で腑分けに参加し、後に「解体新書」の翻訳のきっかけとなった。本堂の入口右手に展示されている「観臓記念碑」は、この小塚原での腑分けを記念して、大正11(1922)年に建立されたものです。
       観臓記念碑文
ドイツの解剖学書である「ターヘル・アナトミア」(=オランダ語の翻訳版)が日本語に翻訳され、「解体新書」が出版されるきっかけになった記念碑的場所。
1922年に作られたが、戦災で被害を受けたので「ターヘル・アナトミアの」表紙絵を刻んだ銅版だけを移動させ、新たに1959年に作り直した。
   松蔭神社の墓地(世田谷区)
ここには高名な志士で安政の大獄に連座した、頼三樹三郎、小林民部少輔、確か桂小五郎の妹婿の来原良蔵が一緒に葬られている
右から、頼三樹三郎、小林民部少輔、吉田松陰、来原良蔵、福原乙之進、あと写ってないけど左側に、綿貫治良助の墓。
      回向院の案内板       小塚原刑場跡案内板
小塚原の刑場は、間口六十間余(約180メートル)。奥行三十間余(約54メートル)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔・斬罪・獄門などの刑が執行された。首切地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうた寛保元年(1741年)に造立されたものである。

      首切り地蔵尊
刑死者を弔う為、1741年に将軍徳川吉宗が寄進した地蔵。
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