荒川区の歴史(昭和30年〜50年代)

                     下町の光の球場
           追憶の東京球場
                     平成18年12月17日(日)  場所
 1962年(昭和37年)、東京オリンピック開幕2年前の日本が高度経済成長の入口を迎えた時代。当時大毎オリオンズのオーナで大映映画社長「永田雅一」の発案により28億円の巨費を投じて建設され、大毎オリオンズのホーム球場となりました。米国サンフランシスコの「キャンドルスティクパーク」を手本にした斬新な球場の誕生です。下町の荒川区「南千住」に突如として誕生した洒落たスタジアムは「光の球場」としてパリーグばかりでなくセリーグの「巨人戦」もあり、下町の野球ファンを熱くしました。映画の斜陽、観客の減少などで1977年に残念ながら解体され、東京都が買収し、その後荒川区の総合スポーツセンターへと変遷しました。
サンフランシスコ 写真
シスコの「キャンドルスティックパーク」
 
 東京球場のお手本といわれるサンフランシスコの「キャンドルスティックパーク」。照明塔の灯がローソクのように見えることが名の由来といわれています。
 以前はサンフランシスコ・ジャイアンツのホームグランド。1964年には南海ホークスにもいた、村上雅則投手が日本人最初の大リーガーとしてこの球場で好投を演じ、日本人ファンを興奮させました。
 1966年にはあの「ビートルズ」の最後の公式コンサートの会場となったことでも有名です。
 1995年5月2日に「野茂英雄」が大リーグ初デビューを飾ったのも「キャンドルスティックパーク」でした。
 一般的には余り知られていませんが、日本人には縁の深い球場ですね。現在はスポンサーの関係で「モンスターパーク」となっています。

往時の東京球場
 
 往時の東京球場の写真です。周辺の密集した民家が下町の雰囲気を醸し出し、現在のプロ野球の球場とは違ったノスタルジックな感じがいいですね。
 鉄塔式の照明が全盛の頃、キャンドル式(支柱)の照明塔は珍しく、「下町の光の球場」として親しまれました。

 

往時の東京球場
 
 往時の東京スタジアムの規模など

◆竣工=1962年5月(昭和37年)
◆収容人員=33,000人
◆球場の規模=両翼91m、センター122m、天然芝
◆解体=1978年(昭和53年)


両翼が狭いため、11年間で1、914本のホームランが飛び出すホームラン製造球場の異名もありました。そのため小山投手のパームボールなどホームラン防止のための数々の低目に沈む「魔球」が誕生したのも東京球場でした。
 

工場時代の航空写真

 東京球場のあった場所は、明治12年に日本最初の官営毛織物工場である「千住製絨所」が開設された日本の産業史を飾る場所でもありました。ここで初めて「ウールの生地」が生産されたことを知る人はすくないのでは?。それまでは軍服の自前調達もできず輸入に頼らざるを得ない状況だったようです。
 隅田川沿いから工場が建設され、最盛期には東京球場のあった場所まで拡張されました。明治政府の富国強兵政策を象徴する大規模工場でした。
 戦後民間の繊維会社(大和毛織)に払い下げになり、繊維産業の衰退などもあり昭和36年に工場が解体され、その一角に「東京球場」が映画界の雄「永田雅一」により建設されました。
(写真=国土地理院空中写真閲覧サービスを引用。撮影日は1947/7/24)

東京球場があった頃の航空写真

 昭和49年解体4年前頃の東京球場の航空写真
 (写真=国土画像情報より引用)


 *下町の密集市街地と東京球場の大きさのバランスが面白い。

東京球場解体後の航空写真

 1972年(昭和47年)東京球場は多額の負債を抱え、経営権は小佐野賢治の国際興業に移りました。ゴルフ練習場、ボーリング場、屋外スケートリンク(冬季)など様々な経営努力がなされました。しかし「貸し球場」では採算が取れないためロッテ球団に売却を打診したが実現にいたらず、解体への道を余儀なくされました。
(写真=国土画像情報より引用)
千住製絨所初代所長「井上省三」の像が
スポーツセンターの脇に建っている
現在の区立南千住野球場、 現在の区立南千住野球場
現在の区立総合スポーツセンター スポーツセンター脇の街路 千住製絨所時代のレンガ塀が今も残る

     荒川区の近代史の中でも東京球場が建設された場所は数々のドラマが生まれたところでもありました。

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