江戸名所絵図「千住大橋」
昭和2年12月鉄橋化

 大橋は木橋から鉄橋になって80歳になりました。

  新:千住大橋物語

          平成20年2月20日(水)

大正4年の木製の千住大橋

 ≪千住大橋は鉄橋になって今年で80歳を迎えます≫
 現在の 『千住大橋』 は昭和 2年12月12日、関東大震災後の帝都復興事業として、東京府による都市計画事業の一環として架設竣工したタイドアーチ橋で、隅田川に架かる橋の多くは、明治・大正期に 「鉄橋」 に架け替えられていますが、「千住大橋」は、昭和の初めまで 「木橋」 でした。平成20年の今日、千住大橋は鉄橋化80年を迎えました
 ≪千住大橋の歴史≫
 千住大橋が最初に架けられたのは、徳川家康が江戸に入府した直後の文禄3年(1594年)11月で、隅田川で最初に架けられた歯歴史的な橋で、現在の大橋の位置より上流200m位のところであるといわれています。、架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次。橋長66間(120m)、幅4間(7m)の橋で、土木工事の大家であった伊奈忠次をしても難工事であったようで、熊野神社に祈願して、苦心の末ようやく完成したようです。
 伊奈忠次が祈願した伝えのある熊野権現は南千住6丁目に現存し、橋が架け替えられるたびに熊野神社の社殿を橋の余材を使って修理・祈願をしたそうです。また祭礼(現在の天王祭と思われる)の際には、橋の南北で橋長と同じ長さの66間の綱をつかって綱引きをして吉凶を占う「千住の大綱引き」といわれる行事があったようです。
 架橋後は「大橋」と呼ばれ、幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外を認めなかったそうですが、明暦の大火等もあり交通や安全確保のために両国橋等が科挙架橋されてからは、「千住大橋(小塚原橋)」と呼ばれていたようです。
 千住大橋は何度も改架、改修が行われ、正保4年(1647年)、寛文6年(1666年)、天和4年(1684年)、享保3年(1718年)、宝暦4年(1754年)、明和4年(1767年)の6回に及びます。明和の架け替えの際に、現在の位置に架け替えられたそうです。明治18年(1885年)の台風による洪水まで、橋の流出が一度も無く「江戸の名橋」と称えられました。

昭和2年12月に竣工した現在の大橋:80歳になりました 大橋の字が見える
アーチが特徴の大橋 航空写真の大橋
大正4年の木橋だった貴重な写真 江戸名所図会に描かれた「大橋」
歌舞伎十八番「将軍江戸を去る」:最後の将軍徳川慶喜が千住大橋から水戸へ去る場面(増谷秀竹画) 名所江戸百景「千住の大橋」【広重】
                                                        
 写真は、2003年6月に隅田川スーパー堤防工事の調査で川底から発見された「千住大橋の高野榎の抗」です。最初の千住大橋の橋杭材は、伊達政宗が陸中南部地方から水に強くて朽ちにくいの材木を寄進し、明治期の洪水によって流されるまで使われ続けたのもこの高野槙を杭に使用したためとのう言い伝えがあります。当時の古い川柳にも「伽羅よりもまさる、千住の槇の杭」と詠まれたほどです。大橋が流されてしまった後も千住地域の住民たちが高野槇の杭を拾い集め、火鉢にしたり、仏像に加工して守り神として祀るなどしていたそうです

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